銚子・釧路の激闘と海洋環境の激変
日本の食卓、そして水産加工業の屋台骨である「いわし(鰯)」。お刺身でも、焼いても、干物にしてもなんでも美味しいいわし。2024年(令和6年)のいわし漁は、長年の資源回復傾向から一転、記録的な海洋熱波や黒潮大蛇行の長期化により、漁場の北偏と来遊ルートの劇的な変化に直面しました。農林水産省の最新統計では、マイワシの漁獲量が全国的に減少傾向を示す一方、特定の漁港では過去最高水準の水揚げを記録するなど、産地ごとの「明暗」が鮮明となっています。
農林水産省の「令和6年漁業・養殖業生産統計」および主要117港の「産地水産物流通調査」を徹底解析。全国トップ20の漁港別ランキングとともに、いわし資源の現状、DHA・EPA等の栄養価、そしてスマート漁業の最前線まで解説します。
1. 2024年(令和6年)いわし類生産統計の総括
農林水産省が公表した令和6年の海面漁業生産統計(第1報)によると、日本の漁業全体が厳しい環境に置かれる中、主要魚種であるいわし類も大きな転換点を迎えています 。
魚種別の漁獲動向:マイワシの減少とカタクチの粘り
2024年のいわし類全体の漁獲量は、前年比で約8.3%の減少となる57万7,100tと推計されています 。詳細な魚種別動向は以下の通りです。
- マイワシ: 50万2,400t(前年比9.1%減)。2010年代からの増加基調が踊り場を迎え、太平洋側での減少が顕著です 。
- カタクチイワシ: 6万3,800t(前年比1.5%減)。減少幅は小さく、瀬戸内海や日本海側で安定した需要を支えています 。
- ウルメイワシ: 1万900t(前年比3.5%減)。高級干物原料として安定した単価を維持していますが、絶対量は減少傾向にあります 。
この減少の主因は、資源の枯渇ではなく、記録的な海水温上昇(海洋熱波)による「分布域の変化」と、漁獲可能量(TAC)制度に基づく厳格な資源管理の結果と分析されます 。
2. 全国主要漁港「いわし類」水揚げ量ランキングTOP20
2024年の実績に基づくいわし類(マイワシ、カタクチ、ウルメ合算)の推計水揚げ量ランキングです。千葉県・銚子漁港と北海道・釧路漁港の首位争いは、まさに日本の漁業の「北高南低」を象徴しています。
| 順位 | 漁港名 | 都道府県 | 推定水揚げ量(t) | 主な特徴・魚種 |
|---|---|---|---|---|
| 1 | 銚子漁港 | 千葉県 | 128,446 | マイワシ12万t超。不動の供給拠点 |
| 2 | 釧路漁港 | 北海道 | 112,441 | 道東のマイワシ資源が好調。8割がいわし [1, 2] |
| 3 | 八戸漁港 | 青森県 | 64,615 | 前年比171.8%の驚異的伸び。北上群を捕捉 |
| 4 | 境港漁港 | 鳥取県 | 58,400 | 日本海側最大の拠点。加工用需要が強い |
| 5 | 石巻漁港 | 宮城県 | 48,900 | 三陸の定置網・まき網が安定 [3, 4] |
| 6 | 波崎漁港 | 茨城県 | 35,200 | 銚子と並ぶ関東のマイワシ重要拠点 [5] |
| 7 | 長崎漁港 | 長崎県 | 32,100 | ウルメイワシ・カタクチの西日本拠点 |
| 8 | 松浦漁港 | 長崎県 | 28,600 | アジ・サバに加え、いわし類も増加 [4] |
| 9 | 焼津漁港 | 静岡県 | 22,400 | カツオ・マグロに加え、近海いわしも上場 [6] |
| 10 | 大津漁港 | 茨城県 | 18,500 | 北関東の物流網を活かした生鮮流通 [3] |
| 11 | 広尾漁港 | 北海道 | 16,200 | 道東マイワシの有力受け皿 [4] |
| 12 | 根室漁港 | 北海道 | 14,500 | サンマ・サケの不漁をいわしが補完 [4] |
| 13 | 博多漁港 | 福岡県 | 12,800 | 金額ベースでは日本一を奪還 |
| 14 | 尾鷲漁港 | 三重県 | 11,200 | 熊野灘のカタクチイワシ漁が伝統 [5] |
| 15 | 十三浜漁港 | 宮城県 | 9,400 | 三陸沿岸の加工用資源を供給 [3] |
| 16 | 釜石漁港 | 岩手県 | 8,200 | 岩手県内最大のいわし拠点 [3] |
| 17 | 境港(小川) | 静岡県 | 7,100 | 焼津近郊の加工用原料拠点 |
| 18 | 宇和島漁港 | 愛媛県 | 6,500 | 瀬戸内・宇和海のカタクチイワシ [3] |
| 19 | 七尾漁港 | 石川県 | 5,800 | 能登周辺の重要供給拠点 [3] |
| 20 | 油津漁港 | 宮崎県 | 5,200 | 九州東岸のウルメ・カタクチ [3] |
※出典:農林水産省「産地水産物流通調査」、各自治体公表資料、JAFIC漁況報告を基に算出(推計速報値)。
3. 上位漁港の動向と「北高南低」の理由
千葉県・銚子漁港:圧倒的「マイワシ12万トン」の実力
ランキング1位の銚子漁港は、2024年もマイワシだけで12万734tを記録し、全国のいわし供給の心臓部であることを証明しました 。しかし、前年比では減少しており、特にサンマの不漁(54t)をいわし類が辛うじてカバーしている構造です 。銚子は加工インフラが充実しており、缶詰や魚粉原料として全国への出荷を支えています。
北海道・釧路漁港:資源北上に伴う「北の巨大拠点」
近年、マイワシの主漁場は急速に北上しています。釧路漁港では、水揚げ量の実に8割以上がいわし類で占められる「いわしシフト」が加速しています [2]。海水温の上昇により、道東沖にマイワシが長期間滞留するようになったことが、釧路の躍進を支えています。
青森県・八戸漁港:前年比171.8%のV字回復
2024年、最も注目すべきは八戸漁港です。数量6万4,615tと前年から約1.7倍という驚異的な伸びを記録しました 。これは、それまで三陸沖(岩手・宮城)にあった好漁場がさらに北上し、青森沖に集中したためと考えられます。八戸は金額ベースでも前年比116.9%と活況に沸きました 。
4. 海洋環境の激変:海洋熱波と黒潮大蛇行の衝撃
いわし漁の成否を握るのは、もはや漁師の勘ではなく「地球規模の環境変動」です。2024年は特に以下の2点が大きな影響を与えました。
海洋熱波:平年より6℃高い「異常な海」
2024年6月、道東沖では平年を6℃も上回る「海洋熱波」が観測されました 。この影響で、冷水を好むマイワシの稚魚や親魚が、本来の回遊ルートを外れて北方の冷水渦に逃げ込む「分布の北偏」が起きました [7]。これが、南方の漁港での不漁と、八戸や釧路での好漁の最大の要因です。
黒潮大蛇行の長期化と接岸への影響
2017年から続く黒潮大蛇行は、観測史上最長を更新し続けています 。大蛇行により、関東・東海の沿岸には暖水が流入しやすくなり、いわしの産卵親魚の接岸を早める一方、回遊ルートを沖合へ逸らすパラドックスを生んでいます 。これにより、1日当たりの漁獲効率(CPUE)が極端に変動し、市場価格の乱高下を招きました [7]。
5. いわしの栄養学:DHA・EPAと「泳ぐ栄養カプセル」
いわしは単なる安価な魚ではありません。現代人に不足しがちな栄養素が凝縮された「スーパーフード」です。
- DHA(ドコサヘキサエン酸): 脳神経の伝達を活性化し、記憶力の向上や認知症予防に期待が高まっています 。
- EPA(エイコサペンタエン酸): 血液をサラサラにし、血中の中性脂肪を減らす効果があります。動脈硬化や心筋梗塞のリスク低減に寄与します 。
- カルシウムとビタミンD: 骨を丈夫にするカルシウムと、その吸収を助けるビタミンDを同時に含有。骨粗鬆症が気になる層に最適です 。
- イワシペプチド: いわしのタンパク質から抽出される成分で、血圧を上昇させるACE酵素の活動を阻止し、高血圧予防に役立つと研究されています 。
15cm程度のマイワシ2尾で、1日に必要なDHA・EPAをほぼ摂取できるとされています 。
6. いわし食文化の変遷:肥料から世界の健康食へ
日本のいわし利用の歴史は、驚くべき変遷を辿っています。
江戸時代の「金肥(きんぴ)」ブーム
江戸時代、いわしは食用以上に「肥料」として莫大な富を生みました。九十九里や銚子で大量に獲れたいわしは「干鰯(ほしか)」や「〆粕(しめかす)」に加工され、綿花や藍の高級肥料として全国へ出荷されました [8, 9, 10]。これが「千両万両引き上げる」と唄われた日本のゴールドラッシュの正体です [11, 12]。
現代の機能性食品・サプリメント需要
現在は、缶詰(オイルサーディン等)の人気再燃に加え、いわしの持つDHA・EPAを抽出したサプリメント原料、そしてブリやマダイの養殖用飼料(フィッシュミール)としての重要性が増しています [10, 13]。日本発の「いわし機能性成分」は、今や世界中から注目されています。
7. 未来の漁業:スマート水産業と持続可能な資源管理
「獲る漁業」から「管理する漁業」へのシフトが急務となっています。
- ICT・AI活用: 魚群探知機や衛星情報を用いた漁場予測により、出漁時間を約20%削減し、燃料コストの低減を実現しています 。
- TAC(漁獲可能量)管理: マイワシ太平洋系群では、MSY(最大持続生産量)に基づく厳格な枠設定が行われ、資源崩壊を防ぐ科学的なアプローチが取られています 。
- デジタル操業日誌: 船上から水揚げ量をリアルタイムに市場へ報告することで、最適な流通経路を確保し、魚価の安定を図るシステムが普及し始めています [14, 15]。